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碁の逸話

 

幻庵因碩義侠の話

 
井上十一世幻庵因碩は井上家歴代十四世因碩と並んで、碁界の英傑と称された人です。本姓は橋本氏。寛政十年の生まれで、自著「囲碁妙伝」の序でみずからいうように”いまだなに心なき六歳の秋より、不幸にしてこの技芸を覚え始め”文化六年十二歳のときにはすでに浜松の山本源吉と二子の手合いをするほどに上達しました。服部因淑に見こまれて養子となり、のちにまた井上十世因砂因碩にこわれ て跡目になりました。碁打ちでおそらく一番多い名を持っている人です。字を可義、名を因徹。服部姓を継いで立徹、井上跡目となって安節、十一世因碩、隠居して幻庵、別号を橋斎。因碩の容貌は満面黒い痘痕があり、眼光は鋭く、一目でただ者ではない威厳がありました。しかし獰猛険悪な感じはなく、婦女子に親しまれやすい愛嬌があったといわれます。つねづね兵法者をもって任じ、四方を遊歴しましたが、異様な風態ゆえ、よく博徒の親分と間違えられることがあり、とても碁院の頭領とは見えませんでした。豪放で物事にこだわらぬ性格で、なお愛嬌のある顔付きの因碩は若い頃から道楽遊びも派手でした。女性にも人気があったと見え、仲に立つ人があって、ある時期に妾を囲っていた事がありました。隕石は女を可愛がって、門人を供に連れて、足しげく女のもとへ通いました。ところがこの女俗に言う尻軽女でした。いつのまにか門人といい仲になり、人目をしのんで情事をか さねていました。(この門人、のち七段となった服部正徹(一、はじめ)といわれている) やがて二人は事の発覚を恐れて駆け落ちし、市中の裏長屋に潜伏しました。弟子たちはしっていましたが、師匠の怒りに触れるのを恐れ、みな口をつぐんでいました。因碩は何も知らんふりでした。女のことも、弟子たちのことも、何一つ口にしませんでした。男と女は駆け落ちしたものの、暮らしをたてる すべもなく、たちまち困窮して、みじめな有様となりました。男の心に、師を裏切った悔悟の念が深くきざしてきました。因碩は知らん顔をしていながらも、決して知らないのではなく、ひそかに人をして両人の居所や動静などを調べ、なにもかも二人の事はわかっていました。ある日、因碩は下僕を呼び、盤石一揃えをになわして、誰にも告げず瓢然と家を出ました。やって来たのは駆け落ちした二人の住まいでした。驚いた門人と妾が土下座してわびるのを制してさとしました。 「人間は艱難貧苦によって名節を失う物だ。お前達、いま新所帯で生活に追われ、さだめし磐石を買うことも出来ぬであろう。わがはいがこれを贈るから、苦しい中でも勉強しなくてはいかんよ」 両人はこの言に感動し、門人は師の恩の深さを知って勉励したといいます。

犬養毅と本因坊秀栄の話

犬養毅と本因坊秀栄は、かたや政治家、方や碁打ちと、その往く道は異なるが、お互いに相手の人柄を高く評価し、肝胆相照らす仲だったといわれます。二人とも権門に屈せず、金銭に恬淡として貧乏を屁とも思わぬところが似ていました。 ある年の夏、犬養が秀栄を「おい、伊香保へ行かんか」と誘いました。 「まいりましょう」と秀栄は二つ返事。 犬養がまだ貧乏書生のころですから、天下の本因坊を連れて行って、一銭の謝礼を出すでもありません。秀栄もそれは承知です。だが、困った事に着て行くものがない。 ふと、いつか友人からもらったネルの着物があったのを思い出しました。しかし、夏にネルを着て行くわけにもいかない。「うむ、夏らしく藍色に染めてしまえ」秀栄、女房に染め粉を買わせ、 一晩で染めてしまいました。着てみると、なかなか良く似合う。「これはいい」と藍染めのネルを着て犬養と一緒に伊香保まで出かけたのはよいが、急に染めたものだから、汗が出るたびに藍がはげて、伊香保へ着くまでに、からだじゅうが藍色に染まってしまいました。道往く人はじろじろ見るし、犬養も妙な顔をしている。 さすがの秀栄も困って「こんなきまりの悪い思いをした事はなかった」 といいます。

秀栄と煙草入れの話

本因坊秀栄がまだ貧乏書生だった頃の話です。秀栄はじめ多くの碁打ち仲間が、麹町のさる爵位のあるお殿様のお屋敷へ、稽古にかよっていました。「お殿様はよくできたおひとだが、あの家令がけしからん」「三太夫の分際で威張りくさっておる」「高段であろうと低段であろうと、謝礼はいつもきまって、一封わずか五十銭。われわれ碁打ちをなんと心得ておるか」「お殿様は知らぬことだ。あの三太夫ひとりで、忠義づらしてとりしきっておるのだ」 と碁打ち仲間の評判はお屋敷の家令に対して以前からよくありませんでした。秀栄も、わずか五十銭の祝儀は引き合わぬと思っていましたが、なにぶん不景気で、碁会沈滞の時節ですから、だまって辛抱して稽古にかよっていました。 ある日お殿様は秀栄に向かい、「師匠、わしが星目置けば、いかに師匠が死力を尽くそうとも、よもや負ける事はあるまいと思うがどうじゃ?」といわれました秀栄、この時とばかり「いや、それはなんともいえませぬ。勝負は水もの、打ってみなければ、結果はわからぬものでございますぞ」 「なになに?星目でもわしが勝てるとはかぎらぬといわれるか。それでは一番勝負されよ。万一わしが敗れたせつは、この煙草入れをつかわそうではないか」 煙草入れはお殿様ご自慢のしろもので、古渡り珊瑚の緒じめに純金の煙管、それに金物のアクセサリーなどついており、価格はおそらく三百円は下らぬ品です。 秀栄、内心ほくそ笑みながら、表面なにくわぬ顔で、またたくまに二番かってしまいました。「では遠慮なく拝領つかまつる」早々とわが家へ帰った秀栄、あの三太夫かならず取り返しに来るわい、と待ちます案の定、翌朝、家令が血相変えてやってきて、煙草入れを返すようにと強談判。「はて、お申し出の煙草入れは たしかに昨日御前より拝領いたしましたが、返せとは御前のおいいつけでござるか、それとも御貴殿のご一存でござるか?」「これは異なこと、御前の命じられた事ではないが、平素のご恩を思えば、御前のおたわむれとして、帰宅の折、 そっとわしの手元へ差し出すべきあろう、真に受けて持ちかえるとは不届き至極である」秀栄は平然として、笑みうかべながらいいました。「この煙草入れ、われわれにとってこそ高価な品でござるが、お殿様にとってはほんのおたわむれ。ご命令でもないのにお返し申しては、かえって失礼かと存じます」厳として応じないので、家令は顔色を変えて飛び出しました

晩酌で投げたはなし

 
土屋秀元(16世本因坊秀元、幼名・百三朗)は明治の酒仙と称された人です  なにかの棋戦で優勝し、銀杯か金杯をもらったときのこと  「わしゃいれものより中身がよい」といった話があります。    あるときお客さんに三子置かせて対局中、長考ももって鳴るお客さんに粘られて、秀元師日課の晩酌の時刻にさしかかりました。のどはグビグビ鳴るし、気が気でなはないが、まさか 「投げて下さい 」   ともいえず、相手の様子をうかがっていました お客さんは投げるどころか、さんざん思案の末、ようやく隅に一石を下しました。ちらりといちべつを投げた秀元老、チャンス到来とばかり  「いや、その手筋が見つかってはもうおしまいです。これで白の負けがきまりました 」  と黒の手をほめて、さっさと石を片付けて一杯のみに。お客さんは大喜びで、翌日某高段者をたずねてその碁を並べ、ちくいち報告です。 「この手のため白が投げました」 ところがこれが大悪手で、黒の必敗だったそうです。      おまけ   土屋秀元 は 土屋秀和(14世本因坊秀和)の子であり 17、19世・本因坊秀栄名人は 腹違いの兄 です この時代 江戸本郷湯島、通称桜馬場に 本因坊外邸( 愛人を囲う家?、、、、、、、があり そこで秀栄は生まれたと記録にあります)そこで疑問に思う人もいるかもしれません 「本因坊ってお坊さんなのに愛人が、、、、」 本因坊は確かにお坊さんの苗字なのですが 江戸時代に入り 林 安井 井上 本因坊 が 家元(華道などにも池ノ坊などがありますね)となり 完全に碁のプロ団体のトップに与えられる称号のようなものに変わっていったのです。      それに加え江戸時代はまだ 愛人が認められていたのですね、、、、    もう一つおまけ  現在の 碁笥 は 安井型、つまり安井家が使っていた形とのことです 本因坊型は 筒型(茶筒の低くしたような形)であったとのことです。

水谷 縫次の賭碁の話

方円社創立の明治十二年から十五・六年ごろにかけて、社長村瀬秀甫が当時の碁打ちぜんぶを先二の手合いに打ち込んでいた中で、四国から出てきた水谷縫次がただ一人、秀甫に先で突っ張っていました。  縫次が郷里今治にいたころ、賭碁がさかんでした・縫次に乗るもの、相手につくもの、勝負がだんだん大きくなりましたが、東京へ出て秀甫に立ち向かえるほどの縫次に勝てる相手はいません。みんな縫次にやられました。  そのあげく、口惜しがった連中が数名、縫次が夜半山越えして帰る途中、山中に待ち伏せて刃物で襲いかかりました。身に寸鉄も帯びていない縫次は素手で必死に白刃を受け止めていましたが、全身数十ヵ所を斬られて倒れました。ふしぎに命は助かったが、縫次は郷里にいるのが恐ろしくなり、上京して方円社の門をたたいたのです。  秀甫が人に語るのに  「縫次は決していやな男ではないが、ただひとつどうにも腹に据えかねることがある。こっちがかんがえているときに、ギョロギョロと顔をのぞき込み、石を下ろすとき、フフンと人を馬鹿にしたような冷笑を浮かべる。それだけは腹が立ってたまらない」  縫次は七段昇段のとき、高橋杵三郎が異議を唱え、争碁を打ちましたが、これがこたえて肺患で亡くなりました。 納棺の時、人々を驚かしたのは、頭には二十八ヵ所の刀瘡、指はほとんど満足なものはなく、肩から背中へかけて、あるいは胸へ十数ヵ所もあり、よくこれで生きていた、といわれました。     この他にも 江戸時代の安井算知は博徒の親分の愛人といい仲になり殺された、などただならぬ話があります

丈和と桜の木の精のはなし

本因坊十二世丈和名人は、まことに数奇な運命をたどった人でした。逸話も多く、この点でも井上十一世幻庵因碩とは、まったくの好敵手です。    丈和は天明七年の生まれ  文政二年 七段上手に昇ったがこのとき、師匠の元丈は実際の年よりも二つ若く届を出し、丈和自身は八つ少なく届けたと、本因坊家旧記にありますが、なぜそのような事をしたのかは不明です。(よくスポーツ選手は身長を実際より高く届けたりしますが、そのような意味でしょうか)   生まれ故郷も謎に包まれています。 この丈和がまだ松之助といった若かりしころ、師匠の元丈から  「 羽州庄内鶴岡の長坂猪之助に勝ってこい。そうすれば三段をやろう」といわれました。 出羽の猪之助と、浜松の山本源吉は当時の江戸の若い碁打ちにとっては恰好の目標で、この二人に勝って、ようやく専門家としての力を認められるのでした。。  鶴岡へ着き 松之助はさっそく猪之助とたいきょくしましたが、先で手もなくひねられてしまいました。失望落胆した松之助は帰途につきました。師匠になんと言えば良いか。もう碁打ちはあきらめて国へ帰って百姓になれ、といわれるだろうか、、、、そう思い悩んで街道を歩いている内、いつしか日はとっぷりと暮れ、あたりは一面野原で人家のかげもありません、、、、   「これはいかん、これでは野宿しなければならぬか」  だがなお歩きつづけているうち、さいわい小高い丘のあたりに一軒の家から明かりがもれているのが目に入りました。  その家を訪れると、そこには白髪の老人が一人で住んでいました。  狭いところですが、ふと見ると壁のそばにこの家にはまったく不釣合いな立派な碁盤が置いてあります。   「この碁盤に目をとめられたところを見ると貴殿は碁を打たれるのかな」  「はい、多少は」  「では夜のつれづれに一番いらっしゃい」 老人はそういいながら碁器を二つ取りよせました。 それは二つとも白石でした。 「これは、、、、」 と松之助がいぶかしがっていると  「そなたは白だけでは打てぬかな」 「いえ、打てぬ事はありませぬが」   「そうか、そういう言葉の様子から見ると、そなたは二段ぐらい打てそうじゃな、では四目置いてきなさい」 といって老人はにっこり笑いました。   驚いたのは松之助でした。二段と知って四目置けとは、いったいこの老人は何者か。それにしても四もくでは勝負にならぬ。吠えずらをかかしてくれよう。と松之助は気色ばんで打ち始めました。  六、七十手をうったころ、老人は突如   「これで勝負あった」 といいます。 「まだまだこれからではないのですか?」不信な面持ちで聞き返すと、老人は  「そなたはこの勝敗がわからぬか」というなり、碁器をとって松之助めがけて投げつけました。  ぱっと、四方に白石が飛び散ります。 そのとき、ふと松之助はめをさましました。見ると、自分は咲きほこる桜の木の下に横たわっていたのです。   「夢だったか」 それにしても、あまりにも記憶が鮮明なので,松之助は桜の小枝で地面に盤をかき、落ちている花びらを碁石にして並べてみると、自分の石はみんな死んでいました。        松之助はここにおいて、碁の玄妙を悟り、羽州へ引き返し、猪之助に再度挑戦したところ今度は猪之助の方が歯が立たなかった、といいます

柳田格之進

  
こりゃあ別名柳田の堪忍袋、ときには碁盤割 とか呼ばれてまして知ってる人は知っている、今の若者にゃぁちと退屈かあしれやせんが ま、そこはかんべんしておくんなさいよ。、、、、、、、 藤堂家の家臣柳田格之進という人、ゆえあって浪人し浅草の東仲町に長屋住居をしております。この人碁が大変好きで、 ある日地主の越前屋左衛門宅へ招かれまして碁を打って帰ったあと、越前屋の手代久兵衛が出入りの屋敷から受け取ってきたはずの百両がふんしつしていました。  久兵衛は 「たしかにだんな様にお渡しいたしました」 それに ご主人 「私も受け取ったおぼえがあるが、どこにも見当たらない 」 そこで久兵衛 「旦那様が柳田様と碁をおかこみになっていらっしゃいます時、お渡しもうしました。これは、ひょっとするとひょっとするで、柳田様が」なんてことを口走り  それにはご主人「これ、ばかなことをいうでない。証拠もなしに、そんなことをいって、あとから。”あっ、あそこへおきわすれた”ですみますか。百両ぐらいの金子、失ったと思えばなんでもない.。よけいなことをくちにするんじゃあありませんよ」と言う主人のこころづかいをよそに、久兵衛はおのれ一存で柳田の住居へやってきました。  柳田を前にして久兵衛「これこれこういうわけでございます。あなたのほかに盗んだ人はおりません。あくまで知らぬとおっしゃるなら、お上へ訴えるほかございません」それに対し柳田「それは主人作左衛門がいわれることか、それともそのほうの一存か」 と申したところ久兵衛「へえ、主人もそう申しております」 そこで柳田しばらく考えておりましたが、やがて「いかにも身共が盗んだと思われても仕方あるまい.百両は返済いたす。しかし、今は手元にない。明後日の夕刻までに都合いたすから、それまで待ってもらいたい」 そういって代わりに自分の大小(刀)を久兵衛にあずけました。、、、、、、約束の日久兵衛が大小を持って柳田をたずねますと、銀をまぜて百両  久兵衛お金をてにすると挨拶もそこそこに「ではごめんください」 そこで柳田「いや、ちょっと待て」 久兵衛「、、、、へい、なにかまだ、、、」 柳田「仮にであるぞ、万一金がほかからでたときは、貴様の首と主人の首をもらいに参るが,それでよいか」 久兵衛はそんなはずはないと頭から思っておりますから 「へい、そりゃもう、よろしゅうございます」と、あっさり請け合って帰りました。、、、、その後、柳田は藤堂家に戻る事を許されます その年の暮れ越前屋は年末の大掃除。 欄間(らんま)の額のうしろから百両が出てきました。主人の作左衛門がそこへいれて忘れていたのでした。久兵衛は青くなりました。さっそく手土産を持って、藤堂家上屋敷へあやまりに行きます。  久兵衛に対し柳田「かねての約束、貴様と主人の首をいただきに参る。あの百両は娘の花が吉原の松葉屋へ身を売って作った金。娘も口惜しがって、もし金が出たら二人の首を見せてくれと申したわ!!」 久兵衛は生きた心地もなく飛んで帰り主人に話します。 そこで主人作左衛門 「ああ、やむをえない、、、」と覚悟する。そこへ柳田が入ってきて大刀をギラリと抜き、さっとふりかぶります  「ああ!」「ひえっ!」 柳田「エイッ!」とばかり、そばにあった碁盤を真っ二つ。 「この碁盤さえなかったら、この間違いは起こらなかった。今後は慎みましょう」 とそれで勘弁したと言う話   あわれ柳田の娘、花は親の碁による争いのために娼妓(しょうぎ)((将棋))になってしまいました、、、、、、お後がよろしいようで 
         


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